異なる言葉を使ってコミュニケーションをとろうとする際はやっぱり外国語そのものの知識は不可欠だ。
英語以外の全くわからない言葉で話しかけられることがよくあるここマレーシアで生活していると、お互い不快な思いをすることなく円満な関係を築くためには言語そのものの知識よりは、言語の使用に伴う行動や話し方、身振り手振りが非常に大切であることを痛感する。
人を注意する際の言葉の使い方や、話す勢い、態度。
大きいお札しかない客に対するレジの店員の態度。
借りたものをどのように返すか。直接本人に渡すか、ただそこに置いていくか。
その際に使う言葉がどんなに適切で美しかったとしても、相手の目に不適切に映る行動であれば意思疎通の相手に対し不快な思いをさせることは不可避である。
言葉を教える立場にある限り、言葉そのものを教え続けなければならないことを否定するつもりはないが、言語教育の究極的な目標とはそれだけだろう か。それを全て議論するつもりはないが、意思疎通能力の育成がその一つである限り、不快を与える意思疎通よりも、不快を与えない意思疎通技能の育成を目指 すことが言語教育の目標の一つであってしかるべきだと思う。
どんなに外国語の文法が使いこなせても、そこでつまずいたがために「○×人は…」と後ろ指を差されるのは残念だ。しかし、正直言って、自分も今までのいろいろな国の人たちとのコミュニケーションの中で、無意識にそうやってレッテルを貼ってきた気がする。
コミュニケーション研究はそれなりに積み重ねのある研究分野だし、まだまだ人気のある分野でもある。
いつか、「不快のないコミュニケーション」が当たり前の世界になるのだろうか。
それとも、「他者を理解してあげなくては」という意思が「不快なコミュニケーション」を駆逐することができるのだろうか。
Sunday, 20 January 2008
Subscribe to:
Post Comments (Atom)
0 comments:
Post a Comment